■日時:2016年 5月22日(日) 13:30~17:30
■会場:京都市山科区安朱中溝町3-2
山科駅より東 徒歩3~4分の民家(山添)
(安朱保育園 東隣)
■内容
(1)学びの会(読書会)
鷲田清一 著『老いの空白』(岩波現代文庫、2015年刊)
「 6 肯定と否定のはざまで 」(149~178頁)
(2)懇親会‥‥食べながら飲みながら語り合います(持ち込み歓迎)
※山添さんご夫妻の手料理を楽しみに。
※懇親会参加者で実費(1000円程度)ご負担願います
■参加申し込み、問い合わせ、メーリングリスト登録希望
⇒「問い合わせ」ページより
★どなたでも参加できます。初参加歓迎。飛び入り参加、突然参加もありです。
★読書会は、本を読んでいなくても遠慮なく参加できます。読んできてほしいけど‥‥。
▼老いゆく過程で、人は……「できなくなった」という事実をやむなく受け入れてゆく。‥‥。
老いとともに、ひとは人生を「できる」ことからではなく、「できない」こと‥‥から見据えることができるようになる‥‥。
何をするか‥‥というよりも、じぶんが何であるか‥‥という問い、さらには自分がここにいるということの意味への問いに、より差し迫ったかたちでさらされるようになる。
ひとの生を「する」ということを基準に考えるかぎり、老いるということはひたすら「する」世界が縮小してゆく過程をたどることだ
▼例えば極限的な身障者、‥‥そういう存在は‥‥結局「ある」ということなのです。「ある」こと自体が価値だということを示しているのです。 ところが「する」という眼差しから、この極限的な身障者を見たときには、全く価値がないということになってしまいます。(芹沢俊介著作より引用)。
▼べてるの家は、「ある」という視点から、「する」を基準とする社会を撃つ試みである。
▼ケアにおける「専門性」――臨床における「専門性」というのは、事態の推移のなかでいつでも「専門性」を棚上げする用意があることだ‥‥。が、‥‥専門性を捨てる用意があるだけでなく、専門性を捨てなければならない。‥‥(そして)ある瞬間、脈絡を読み取ってぱっと(元の専門職に)戻れるというのがほんとうの意味での専門性ではないのか。