■日時:2015年 8月2日 13:30~17:30
■会場:京都市山科区安朱中溝町3−2
山科駅より東 徒歩3~4分の民家 (山添)
(安朱保育園 東隣)
■内容
(1)学びの会(読書会)
鷲田清一『老いの空白』(岩波現代文庫、2015年刊)
「 2 できなくなるということ 」
(2)懇親会‥‥食べながら飲みながら語り合います(持ち込み歓迎)
※山添さんご夫妻の手料理は絶品です。美味しいこと請け合い
※懇親会参加者で実費(1000円程度)ご負担願います
■参加申し込み、問い合わせ、メーリングリスト登録希望
⇒「問い合わせ」ページより
▼〈老い〉のかたち、〈老い〉の文化が、〈老い〉そのものの内にも外にも見えない‥‥。〈老い〉は空白のままである。▼〈老い〉のかたちはこれから長い時間をかけて作ってゆかなければならないだろう。(‥‥)〈老い〉は(‥‥)社会にとって根底的な問いとして、いま立ち現われている。 (はじめに)
▼〈老い〉は、ふつうのひともしくはふつうの家族にふつうに訪れる。▼人間は介護されつつ誕生し、生育し、しばらくのあいだ自立して――これもほんとうは分業というかたちで支えあいのなかにある――、そしてふたたび介護されつつ死にゆく。(5頁)
▼〈幼〉と〈老〉に共通するのは、いずれも単独で生きることができないということである。いいかえると、他のひとの世話を受けるというかたちでしか生存を維持できないということである。(11頁)
▼支えあいというのはけっして理想なのではなくて、ひとであるかぎり必然の事実なのである。(12頁)
▼(《生産力主義》のなかで)〈老い〉は、保護や介護、ときには収容や管理の対象とみなされてゆく。年老いて、じぶんはもう消えたほうがいいのではないか、じぶんはお荷物、厄介者でしかないのではないかと問わないで生きえているひとは(‥‥)たぶん少なくない。無力、依存、あるいは衰え、そういうセルフ・イメージのなかでしか〈老い〉という時間を迎えられえていないということが(‥‥)〈老い〉の空白でなくていったい何だろうか。(15頁)
▼ひとはただ生きているのだけではなく、生きるということ、じぶんがここにあるということ、そのことの意味をも確認しながらしか生きられないものであるのに(11頁)
▼(〈ケア〉についての)語りが介護する側からばかりなされてきた(‥‥)。
介護される側から発せられる言葉は乏しかった。(19頁)