〈ケア〉を考える会(第70回)

        20110523 京都府立植物園
        20110523 京都府立植物園

◆ 〈ケア〉を考える会(7月例会/第70回)の開催をご案内します。

○日時:7月9日(土)13:30~17:30
○読書会:『「渦中」の心理学へ』(浜田寿美男・伊藤哲司著、新曜社)
 第3章≪心理学は「生きるかたち」をどこまで語れるか≫を読んで語り合います。
○懇親会:食べながら、飲みながら……
 ケア現場からの声・体験談など、最近読んだ本から、その他(自由テーマで)
○参加費:無料(食べ物、飲み物持ち込み歓迎)
○場所:京都市中京区西ノ京内畑町31、GLマンションⅢ-303 (林)
○交通:「二条」駅(JRまたは地下鉄)北へ徒歩5~8分(二条自動車教習所の西隣)
○問合せ・申込:「問い合わせ」ページより
○どなたでも参加できます。

◆ 浜田寿美男さんは、伊藤哲司さんとの、この往復書簡の第14便で≪「心」ではなく、具体的な「状況」に寄り添う≫として次のように述べています。

 その人が身を置いた「渦中」に寄り添わなければならない。(P.106)

 「心」ばやりの現代、それだけ心理学がもてはやされているのですが、「心」はそれそのものとして他から独立に存在するようなものではありません。「心」は身体抜きにはありえませんし、身体はつねに具体的な状況にさらされています。そうだとすれば、私たちが寄り添わなければならないのは「心」などという抽象的なものでなくて、それぞれの人が身体をもって「渦中」を生きているその具体的な状況なのだと、あらためて思います。(P.108)

◆ また、伊藤哲司さんは次のように述べます。

まずは自分自身が、その渦中にあって、すぐに言葉にできなくとも、実感としてわかっているというところまでいかねばなりません。そのためには、「客観的」に観察していたのでは、まことに不十分です。
「動きながら識る、関わりながら考える」……という……スタンスを、自分が……いかにとっていくことができるかがポイントだと思います。(P.63)

 

 

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会 の 報 告

京都「老人のターミナルケア研究会」代表世話人で医師の村井敦志さんが初めて参加されました。それに、西川勝さん(15時には帰らなければ、と言っていたのに、結局最後までお付き合い願いました)、上條さん、長谷川さん、佐藤さん、西尾さん、岸田さん、各務さん、それに私、9人の参加でした。

 

村井さんは「老人のターミナルケア研究会」を21年前に作られました。老人病院に入れられた高齢者の悲惨な状況をみて、ケアの必要性を強く感じてのことです。当時、医学界では高齢者のケアに全くといってよいほど目が向けられていなかったのでした。

 

また、1997年には、口から食べることを大切に思って経口摂取の努力を重ねていた村井さんに、新聞紙上で「安楽死」バッシングが行われました。記者は「食べられなくなったらチューブを入れるのは常識だ、入れないから死ぬんだ」と村井さんを非難したそうです。

 

村井さんは、821日に大阪大学で開催されるシンポジウム「高齢社会における認知症のターミナルを考える」のシンポジストの一人でもあります。こちらも楽しみです。

 

さて、『「渦中」の心理学へ』は第3章に入りました。

 

浜田寿美男さんはこんなふうに言っています。

――これまでの発達心理学は、理論そのものの中では、子どもたちの希望も未練も、絶望も後悔も語ってきませんでした。……人は「状況」を「渦中」から生きています。そして、この構図の中でこそ「希望」を語り「未練」を語ることができるのです。ところが、科学たらんとして「主観の世界」を排する発達心理学は、上空飛行して、上から、あるいは外から客観的に人間を眺めようとしてきました。そうであるかぎり、そこには「希望」も「未練」もありません。……むしろ、「希望」や「未練」という人間の生きるかたちをきちんと語ることのできる心理学を何とか構想していくことこそが必要ではないか。――

 

西川勝さんは、翌10日に奈良県で開かれたフォーラム「終のすみかはどこ?」のディスカッションのなかで次のようなことを述べていました。

――ぼくは、後ろ髪を引かれて死にたい。未練をもって死にたい。

「希望」と「絶望」の狭間にある「未練」…… ――

 

伊藤哲司さんのこんなことばも印象的でした。

――そもそも誰かの「心」そのものを取り出して「ケア」しようなんて発想自体がおこがましく、実は誰にもできないことなのではないかと思うのです。にもかかわらず、心理学をしっかりと学んだ「心の専門家」ならばそれができると自他ともに勘違いしてしまった心理学者や心理カウンセラーたちが……「活躍」するようになった。――

 

――心を単純に「善玉」「悪玉」という二分法で切り分ける発想も、その「悪玉」をなくしていくべきだという発想も、子どもたちにどう響くのだろう……。そもそも「善」か「悪」かなどという単純な二分法で、心を捉えることなどできないでしょう。――

 

 

会の後、鴨川沿いを歩きたいと言う西川さんにつきあったのです。

気持ちは爽やかでしたが、酒が入った体は重かったですねぇ。

 

 

※ 今後の会の予定……821日(大阪大学シンポジウム)、911日、108

 

(林道也)